鉄器商スキッドモアの1795年トークンと、渡米した息子ポール
英国の貨幣商ボールドウィンは2023年9月9日、ロンドンの鉄器商ジョン・スキッドモアの1795年の半ペニー・トークンを、同年10月11日に予定したオークションの案内とともに紹介しました。記事は、トークンの「P」の文字が次男ポールを指すとみられることと、ポールが米国に渡り、ルイビルで市最初の鉄工所を始めたとする最近の研究を伝えています。ただし記事の前半は、ルイビルの人物がポール本人かどうかは確かではないとしています。
訂正(2026年10月13日) 題・要約・本文を出典に合わせて全面的に書き直しました。出典に無い「偽造者」としての記述、化学分析・XRF・摩耗による鑑定の話、価格帯や値上がりの見通し、ボールトンやほかの業者との比較、投資の勧めを削り、出典が伝える1795年のトークンの内容、2023年10月11日に予定されたオークション、息子ポールの経歴と、記事の中の記述の食い違いを出典どおりに示しました。旧題は「Skidmore's 1795 Half-Penny: How Georgian Counterfeits Expose Modern Authentication Gaps」です。
※この記事は、英国の貨幣商 A. H. Baldwin & Sons(ボールドウィン)が2023年9月9日に公開したブログ記事に基づきます。記事は、同社が2023年10月11日に開く予定だったオークションの案内を兼ねていました。
ボールドウィンは2023年10月11日、ロンドンのストランド399番地で、18世紀末のトークン(代用貨幣)の半ペニーを集めたオークションを開くと告知しました。会場での参加のほか、電話やウェブサイトからの入札もできるとしていました。
1795年の半ペニー・トークン
記事の冒頭に載っているのは、ロンドンのホルボーンとクラークンウェルで鉄器商とトークン製造を営んだジョン・スキッドモアの、1795年の半ペニー・トークンです。表には炉で働く2人の男性、裏には鉄製の暖炉の火格子(ひごうし)が描かれています。縁には斜めの刻みがあります。直径は29.5mm、重さは9.97gで、分類番号は DH 480 です。記事は、打たれた時の光沢がほぼ残っている状態と説明しています。記事には90〜140ポンドと記されています。
スキッドモアの商売とトークン
記事によると、スキッドモアはハイ・ホルボーン123番地の店で、暖炉の火格子やストーブを売っていました。品物はクラークンウェルのコピス・ロウにある自分の鉄工所で作っていました。本業のかたわらトークンの製造と販売も始め、1795年には自分の店を宣伝する半ペニー・トークンを発行しました。
彫り型(ダイ)の彫刻には、主にチャールズ・ジェームズを使っていました。1795年から1797年にかけて多くのトークンを出し、熱心に集めていた当時の人々に売りました。型をよく組み合わせて、新しい種類を作りました。こうした組み合わせのトークンは「ミュール」と呼ばれます。
記事は、スキッドモアがかつて「当時最も非難されるべき業者の一人」と評されたことを紹介しています。ただし、記事はこの評価の理由を説明していません。
「P」は誰か
スキッドモアのトークンの多くには「PSC0」という組み合わせ文字か、「P Skidmore」の名があります。記事によると、この「P」はピーターの頭文字だと長く考えられてきました。しかし、スキッドモア家にその名の人物はいません。記事は、トークンの部門は次男のポールが担っていたらしく、PSCo の「P」はポールだと見ています。
スキッドモアは1739年、スタッフォードシャーのキングスウィンフォードで生まれました。1784年にはクラークンウェルでストーブと火格子の商売をしていた記録があります。妻ナンシーとの間に6人の子がおり、長男メレモスは1795年に共同経営者になりました。
息子ポールの渡米
ポール・スキッドモアは1775年12月22日に生まれ、1776年2月4日にクラークンウェルのセント・ジェームズ教会で洗礼を受けました。1789年12月には、れんが職人で屋根職人のサミュエル・グレイのもとで徒弟になりました。1796年3月には王立技芸協会に手紙を書いており、美術に関心があったことがうかがえます。その後の足取りは途絶えます。1822年8月の父の遺言にも名がなく、父より先に亡くなったと考えられていました。
記事の後半は、最近の研究でポールが米国に渡っていたことが分かったと伝え、その後の足取りを次のようにたどっています。1798年6月には兄弟と「P&G Skidmore」の屋号で、ニューヨークのパール・ストリート222番地で商売をしていました。英国から輸入した宝飾品や金属製品を売っていましたが、商売はうまくいきませんでした。記事は、1801年までにガマリエルが帰国したと記しています。ポールは借金をめぐる裁判を重ね、最後は破産しました。
ポールは1805年、700マイル以上離れたケンタッキー州モンゴメリー郡で再び記録に現れます。翌年は近くのバス郡のバーボン炉にいました。その後レキシントンを経てルイビルに移り、1812年に市で最初の鉄工所を始めました。記事は、この鉄工所がうまくいっていたとしています。1815年には、地元の有力な実業家の娘マチルダ・フランシス・グワスミーと結婚しました。
記事は、ポールが1816年に建てられたジェファーソン様式の歴史的な住宅「ファーミントン」の設計者だったとしています。この家は今も残り、一般に公開されています。ポールの遺言は1817年12月4日にニューオーリンズで署名され、ポールはその後まもなく同地で亡くなりました。1818年1月24日付のニューヨーク・イブニング・ポストは、ポールの死去を「ルイビルにて、ロンドン生まれのポール・スキッドモア」と、やや不正確に伝えました。
なお、記事の前半と後半では記述が一致していません。前半では、ポールが兄のメレモスとニューヨークへ渡ったと書かれています。また前半は、ポールがその後どうしたかは確かではないとし、数年後にケンタッキー州ルイビルに住んでいたと伝えられるポール・スキッドモアが本人なのか、それとも亡くなっていたのかは分からないとしています。後半の研究紹介は、ルイビルの人物を本人としてたどっています。また後半は、ニューヨークで一緒に商売をした兄弟の名を明記していませんが、屋号は「P&G Skidmore」で、1801年までに帰国した人物としてガマリエルの名を挙げています。
出典: A. H. Baldwin & Sons「John Skidmore – one of the most reprehensible dealers of the time」(2023年9月9日)
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